「みんな違って、みんないい」
よく言われるキレイゴトなんだけど、「他人ってそんなに違わないぞ」と教えてくれるのがこの本。
「人それぞれ」というほど他人は違ってない
本書の第2章「『人それぞれ』と言うほど人は違っていない」は、特に面白いのでぜひ読んでほしい。
この章で書かれていた、みんな意外と違っていない2つの理由を紹介しよう。
サピア・ウォーフの仮説はウソ
『言語・思考・現実』(講談社学術文庫)に、サピア=ウォーフの仮説が紹介されている。
サピア=ウォーフの仮説とは、要するに、
たとえば、日本人には虹は7色に見えるが、中国人には3色に見える、ということ。
(中国語は色の区別が日本語より少ないから?)
サピア=ウォーフの仮説は、「言語が違えば虹が全く別物に見える」という衝撃の事実を指摘したから、けっこう一般人には信じられていたらしい。
しかし、『基本の色彩語━━普遍性と進化について』という本にある研究では、正反対の結果が出た。
その研究とはこうだ。
- 著者たちは20の異なる言語の話者に様々な色のついた紙片を見せ、その中から最も基本的な色だと思うものを選び、その名前を言うように求めた。
- この調査結果から明らかになった事は「最も基本的な色」の例として選ばれた紙片は、ほぼ一定だということだった。
「基本的な色」は、白・黒・赤・緑・黄・青・茶・紫・ピンク・オレンジ・グレーの11色で、人種が違っても基本的な色の捉え方は人類共通だったという結果だ。
色の見え方は人類普遍だから、
つまり、中国人には虹が3色しか見えないというのは、間違いだということになる。
著者は本書でこう書いている。
このように色の名前や見え方には普遍性があることが明らかになっているのですが、いまだに「日本では虹は7色だが、フランスでは5色、中国では3色」などといった言語相対主義の話が一般の人々の間では結構信じられているようです。
しかし、日本人には虹が7色に見えるがフランス人には5色に見えるなどという事はありません。
単に日本では「虹は7色」というフレーズが流通しているだけです。
7色というのは日本人が虹をよく観察して区分したと言うよりは、七不思議、七福神などのように慣用句によく使われる数字だから採用されているものと思われます。
(『「みんな違ってみんないい」のか?』より)
色は目の網膜にある錐体細胞で認識するから、遺伝的な原因がない限り、人類に見える色は同じはずなんだ。
だから、
━━とドヤ顔で言ってのける人を見かけたら、
日本人が虹は7色に見えるというのは、単に日本語では7という数字が慣用句などに使われて流通してるだけ。
虹は日本人も中国人も同じように見えてるんだよ。
━━と論破してあげよう。
赤ちゃんはリンゴを理解できる
━━と言う人がよくいるけど、それはかなり怪しい。
本書では、赤ちゃんがリンゴを一発で理解できるという例をあげている。
- 赤ちゃんにリンゴを教えるとする。
しかし、どこまでがリンゴなのか?リンゴが乗っている指まで含めてリンゴなのか?それともにっこり笑っているお母さんも含めてリンゴなのか?普通はわからない。 - リンゴを見せても、どこまでがリンゴなのか具体的に理解するのは極めて困難なはず。
- しかし、赤ちゃんは一度リンゴを見せて「リンゴだよ」と言っただけで、どこまでがリンゴなのかを理解してしまう。
AIにリンゴを教える場合は、「手のひらに乗っている赤い物体のみがリンゴで、肌色をした手や指や腕はリンゴではない」と細かく教えないといけないらしいけど、赤ちゃんはリンゴを一発で理解できる。
どう考えても、赤ちゃんは「白紙」なんかじゃなくて、「モノには名前があって、呼び分けることで区別する」という知識が最初からあるんだ。
だから、人種が違っても「モノに名前をつけて呼び分ける」というルールは人類普遍だし、「指までを含めてリンゴと呼ぶ」なんてヘンテコな人間も存在しないんだ。
著者はこう書いている。
言葉の意味の多様性は人間にとって理解可能な範囲内にとどまる。
「言葉の意味は言語それぞれ」というほどには、言語は異なっていない。
(『「みんな違ってみんないい」のか?』より)
アフリカの部族なんかは、どうしても全く違う言語で全く違う世界を見てそうな気もするけど、
━━と言う人がいたら、
だから、赤ちゃんには赤ちゃんが理解可能な範囲でしか教えることはできません。
━━と教えてあげよう。
みんな意外と違ってない
「みんな違って、みんないい」という言葉は、一見美しい言葉のように見える。
でも、
━━と、相手を理解するのを諦めるための格好の言い訳にもなってしまうんだ。
確かに、相手が「手の指までを含めてリンゴと呼ぶ」とか「モノに名前をつけないし、モノを区別もしない」ような宇宙人だったらもはや対話不可能だから、「みんな違って、みんないい」で諦めればいい。
でも、どの国の人間だろうと、人間である以上は世界の捉え方は同じだから、お互いに理解できるはずだ。
「みんな違って、みんないい」と言うほど人間は違っていない。
たとえ遠い外国人だろうと、「みんな違って、みんないい」を言い訳にして逃げない。
「みんなそんなに違わないし、理解できる」ことの重要性を、本書は教えてくれるんだ。
OSは一緒だけど、アプリは人によって違う
ここまでの話をパソコンで例えてみると、わかりやすい。
みんなが使ってるパソコンのOSは、ほとんどWindowsかMacだと思うけど、どのOSにしても「クリックで開く」とかの基本的操作は同じだ。
人間にも「モノには名前があって、名前を読んで区別する」というOSは人類普遍にインストールされてるから、全く話が通じない、なんてことはない。
どれほど理解できないと思える相手でも、OSは同じはずだから、理解は可能なはずだ。
となると、人類に共通のOSがある限りは、戦争は起これど、全く理解不可能ではないし、相手の行動もある程度予測できる。
本当にヤバいのは、人間と全く異なるOSを持ち、「手の指までを含めてリンゴと呼ぶ」とか「モノに名前をつけて区別しない」みたいに、まったく異なるルールを持った宇宙人が地球に攻めてきた時かもしれない。
俺には「手の指までを含めてリンゴと呼ぶ」ような宇宙人と対話ができるとは思えないし、行動も予測できない。
ということで、共通したOSを持ってるからこそ、お互いに理解可能で平和でいられる人類に感謝したいと思える本でした。
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